2012/06/20

2012/6/19 武田同門会「安達原」

昨日は観世能楽堂にて武田同門会「安達原(あだちがはら)」のワキを勤めてまいりました。

観世流以外の四流は「黒塚」と言います。

とても上演回数の多い曲ですが、地方や学生能で上演される場合は一部を省略する事が多いので、昨日のように全曲をやるのは久しぶりでした。
リハビリですね(笑)

その中のクセ(一曲の主題的な重要部分)の部分は、物語の進行にはあまり関係しないことが多いので、時間を短縮する時は省略が多いです。

しかしながら「黒塚(安達原)」のクセは、人間の苦悩を訴える重要な部分ですので、ご紹介したいと思います。

あらすじもUPしましたので、「安達原」をご覧になったことのない方は、まずそちらからどうぞ。



ただこれ地水火風の、仮に暫くもまとはりて、生死に輪廻し、五道六道に廻る事、ただ一心の迷いなり。凡そ人間の、徒なる事を案ずるに、人更に若き事なし。終には老となるものを、かほど儚き夢の世を、などや厭はざる我ながら、徒なる心こそ、恨みてもかひなかりけれ。

(現代語訳)
ただ地・水・火・風という四つの元素が、たまたま一時的に結びついては命を生み、また死ぬことを繰り返すのです。その生命がいつまでも成仏できずに、天上・人間・地獄・餓鬼・畜生の五つの世界や、修羅を加えた六道を巡るというのは、心一つの迷いによるのです。そもそも人間社会の無常を思うに、人はいつまでも若いままでいられることは絶対になく、結局は老いの苦しみを迎えることになります。それなのに、これほど儚い(はかない)夢のような世の中を、なぜお厭いにならないのか。(山伏様から生きているからこそ成仏できるのですよと教えられますと)我ながらこの世間に執着する愚かな心こそが恨めしい。こんな心で自分のつたない人生を恨んでも甲斐のないことでしたよ。




「ただこれ~迷いなり」の話者はワキ(山伏)で、後半の話者はシテ(女)になります。

この能の前半で、女が枠桛輪(わくかせわ・糸繰り車)で糸を紡ぎながら苦しい日常を訴えます。この糸繰り車は、輪廻する人の生を象徴し、長く辛い人生、人間として生きることの苦しみを表しています。



皆様はこの能をご覧になると、いくつか疑問点が生じてくることと思います。私も然りです。

女は本心から山伏に憐れんで宿を貸したのか?
親切心で暖をとるため裏山へ薪を取りに行ったのか?
初めから取り殺すつもりだったのか?
山伏に閨(ねや・寝室)を見られなければ何事もなかったのか?


能では何もはっきりとは言いません。我々演者は演者なりに考えて演じ、観客は観客なりに何かを感じる。

人間の本性が主題となるため、演者の人生経験や客個人の人生経験によって様々な能になり、これが能の魅力と言えるでしょう。

なんとなく鬼女が可哀そうに思えてきます。







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