2015/12/26

2016/1/2 御松囃子 ~金沢能楽美術館

今年150年ぶりに復活した、金沢藩正月二日の夜の謡い初め式、御松囃子。

来年一月二日も行われます。

場所は金沢能楽美術館・3F研修室。12時半開演。




今年は謡曲「兼六園」が披露されます。

「兼六園」は、金沢の絵師・福島杏山(きょうざん)の作で、加賀藩3代当主・前田利常の功績を広く知ってもらうため謡曲にしたもの。

あらかじめ募集された一般参加者によって、「兼六園」の一部を小謡として披露していただきます。

皆様のご来場をお待ち申し上げます。

北國新聞 記事より

2016年1月の主な出演スケジュール


2日(土) 御松囃子 高砂・猩々 石川県立能楽堂 12:30~


(待謡)






6日(水) 国立定例公演 金札 国立能楽堂 13:00~





6日(水) 高崎少林山達磨寺 羽衣 高崎・達磨寺 21:00~

観音堂奉納薪能







9日(土) 能を知る会



一部 鎌倉能舞台 10:00~

二部 船弁慶 14:00~





10日(日) 宝生会月並能 熊野 宝生能楽堂 13:00~





11日(月) 銕仙会 宝生能楽堂 13:30~





16日(土) 府中能



一部 土蜘蛛 府中芸術劇場 10:00~

二部 土蜘蛛 14:00~





17日(日) 京都観世会 鶴亀 京都観世会館





23日(土) 東京観世会 巻絹 梅若能楽学院 13:00~





31日(日) 鷹の会 藤戸 福岡・大濠公園能楽堂 13:00~





2015/12/14

金澤神社

12月12日に、いしかわの伝統文化活性化実行委員会主催の
加賀宝生☓京金剛 ~夢の競演 の無事を祈念するためお詣りをさせていただきました。

拝殿の中でお祈りさせていただくのは初めてでした。

金澤神社 http://kanazawa-jj.or.jp/about/

 金沢神社(かなざわじんじゃ)は、石川県金沢市に鎮座する神社である。菅原道真を主祭神とする。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。
 寛政6年(1794年)、加賀藩11代藩主前田治脩藩校明倫堂を建てた際、その鎮守社として、学問の神であり、前田家の祖先とされる菅原道真を奉斎する神社を創建したのに始まる。兼六園を整備する際に明倫堂は別の地に移転したが、神社はそのまま残され、12代藩主前田斉広が建てた竹沢御殿の鎮守社とされて竹沢御殿御鎮守天満宮と称した。神社には、災難除けの神である白蛇竜神、交通安全の神である琴平大神、商売繁盛の神である白阿紫稲荷大明神も合わせて祀り、歴代の藩主が兼六園を散策する際に藩内の繁栄と平和を祈願した。
神社への参拝は、明治以前は4月25日と9月25日の例祭の時に城下の婦女子にのみ許されていた。明治7年(1874年)の兼六園の一般開放にあわせて、自由に参拝が出来るようになった。明治9年(1876年)に金沢神社に改称した。
学問の神である菅原道真を祀った神社の中でも金沢市の市街地に最も近く藩校の鎮守であったという経緯もあって毎年受験シーズンには、数多くの受験生が参拝に集まる。平成16年(2004年)には、本殿および拝殿が登録有形文化財として登録された。

       ウィキペディアより抜粋

 





拝殿内の写真は宮司様の許可をいただきました
剣梅鉢(加賀梅鉢)紋でいっぱいです


 



神門(隋身門)


撤下神饌(てっかしんせん)とは?

日本の神社や神棚に供える供物を神饌という。神社などでは、米、塩、水、野菜、魚、干物、海藻、果物、清酒などを供える。供えた神饌のお下がりを撤下神饌という。これは神様が召し上がったものをいただくことにより、神様との結びつきを強くし、神様の御力を分けていただき、その加護を期待するものである。
 

 

2015/12/12 加賀宝生 ☓ 京金剛



12月12日(土)は、金沢市 石川県立能楽堂にて

加賀宝生 ☓ 京金剛 ~夢の競演
金剛流 「妻戸」、宝生流 「雷電」
私は宝生流「雷電」のワキを勤めさせていただきました。

前日の悪天候には少々驚きましたが(天神様のお怒り?)、当日はお天気にも恵まれ、絶好の観能日和となりました。


宝生流「雷電」
護国の法会最終日の深夜、比叡山延暦寺座主・法性坊の僧正(ワキ)の前に、かつての愛弟子・菅原道真(前シテ)の亡霊が現れる。亡霊は前半生の師恩を謝し、冤罪で憤死した恨みを晴らすのに、気がかりなのは叡山随一の恩師の法力、たとえ勅命でも出仕してくれるなと懇願する。二度までは断ろうとの師の言葉に、仏前のザクロの実をバリバリとかみ砕き、坊の引き戸に吐きかけるや炎となって、亡霊は姿を消す(中入)。
道真の怨霊(後シテ)は、迷走する雷雲さながら、僧正を避けながら宮中で暴れ回るが、ついにはその法力に屈し、また天満大自在天神の神号授与の勅命を喜び、天空に姿を消す。

『太平記』巻十二の見える北野天神説話を脚色。能の世界でも天神物は人気があり、数々の作品が作られたが、比較的成立の新しい「雷電}が、江戸後期以後、金春流を除く諸流の正式演目となった。
しかし宝生流では、嘉永四年(1851)に前田斉泰公が、家の祖神・菅公の九百五十年遠忌を記念して後半を改作した「来殿・舞入」を流儀の異式演出に採用、明治に入りさらに「来殿」を改作の上、こちらを正式所演曲として、「雷電」の方は廃曲とした。
本曲はその復曲である。


金剛流「妻戸」
護国の法会最終日の深夜、恩師法性坊の僧正(ワキ)の住坊に現れた菅公の亡霊(前シテ)は、僧正よりの追善の弔いを喜び、孤児のわが身を育んだ養父の厚恩と、恩師の学恩とに深く謝しながら昔語りをする。ところが時平に陥れられた無念を語る内に、仏前のザクロを取ってかみ砕き妻戸に吹き掛け火炎となし、僧正が法力で消し止める隙に姿を消す(中入)。
通夜して待つ僧正の前に、天満天神となった菅公の神霊(後シテ)が現れ、神号授与の君恩を喜び舞を舞い、北野に降臨して天長地久の世を守ることを誓う。

「妻戸」は、宝生流の改作現行曲「来殿」の文言を一部改訂のうえ改名した早舞物で、坂戸金剛家最後の家元金剛右京が、自ら刊行した昭和版金剛流謡本に所収し、いっぽう旧作「雷電」を廃曲としたために、こちらか金剛流の正式演目となった。ところが「妻戸」は昭和四十六年に廃曲となり、「雷電」が再び金剛の正式演目となった。
前場の中入の段の直前までは「雷電」と同内容だが、中入の段以降が「来殿」を踏まえる。



この日の催しは、金剛と宝生とが、わざと演目を取り替えたような面白い形となりました。

「妻戸」のワキには、遥々姫路から江崎欽次朗師が来演。
坊主くらべのような公演に、お互いやりにくい感じがありましたが、記念に楽屋で写真を撮らせていただきましたので、掲載しておきます。



開演前にこの日の公演の成功と無事を祈念するため、金沢能楽会のメンバー6名で金沢神社へお詣りさせていただきました。
金沢神社の投稿もどうぞ御覧くださいませ。