2020/04/13

氣多大社(石川県羽咋市)「鵜祭」


能登国一宮 氣多大社(けたたいしゃ)

  石川県羽咋市(はくいし)寺家町








鵜祭(重要無形民俗文化財)

氣多大社のパンフレットより転載

12月16日未明の神事である。これより前、遠く七尾市の鵜浦町(うのうらまち)で生け捕った一羽の鵜を、同地の鵜取部(うとりべ)3人が鵜籠に入れ、2泊3日の道中をして14日の夕方ごろ神社に到着し、鵜は餌止めとなる。鵜は生け捕られた瞬間から神となり、鵜様(うさま)と呼ばれ、道中では民衆が「鵜様を拝まずに新年は迎えられん」と手を合わす。
16日午前3時過ぎ、神社で祭典があり、祝詞奏上、撤饌(てっせん)がすむと、本殿内の灯火だけを残して消灯し、四辺は暗黒となる。鵜取部が鵜籠を本殿前方に運び、神職との間に問答が交わされる。やがて「鵜籠を静かに下し、籠を取り捨て、鵜をその所に放てと宣い給う」とおごそかに言われると、鵜取部は鵜籠の鵜を本殿に向かって放つ。鵜は本殿の灯火をしたって昇り、殿内の台にとまると取り押さえられ、海浜に運ばれて放たれる。鵜は闇空に飛び立ち、行方も知れず消え失せるのである。

鵜祭の由来は明らかでない。神社の所伝によれば、祭神の大国主神(おおくにぬしのかみ)が神代の昔、初めて七尾市鵜浦町の鹿渡島(かどしま)に来着したとき、同地の御門主比古神(みかどぬしひこのかみ)が鵜を捕らえて捧げた故事によるとか、あるいは同地の櫛八玉神(くしゃたまのかみ)が鵜に化して海中の魚を捕って献上した故事に基ずくと説かれている。

当夜、鵜の神前への進み具合によって、年の吉凶を占う習俗があった。加賀藩祖の前田利家は、鵜祭の行事を重んじ、天正13年(1585)に鵜取部へ鵜田二反を寄進しているほどであるが、鵜祭の鵜が例年に勝って神前によく進んだことを聞き、「国家之吉事、不可過之候」(能登国にとり、これ以上縁起の良いことはない)と喜んだ書状が大社にある。

この神事を脚色した能「鵜祭」があるが、加賀藩祖前田利家が贔屓にしていた金春流でもっぱら演じられていることは注目すべきである。



折柄の新型コロナウイルスの影響で 外出自粛の期間中ですが、参拝客もまばらでゆっくりお参りすることができました。




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