2014/10/28

三井寺

先日京都にて催された冬青能(とうせいのう・青木道喜主催)「高野物狂」の申し合わせの後、念願だった三井寺(園城寺)へ行ってまいりました。

小学校の時に、両親とともに伺ったようですが、まったく記憶がありません(笑)

京都市内から地下鉄東西線浜大津行きに乗り、浜大津にて石山坂本線に乗り換え、一つ目の「三井寺」駅下車、徒歩約10分。


琵琶湖疏水の横を通ります。



伽藍の壮大さ、建造物の見事さに圧倒されながら撮った写真は50枚以上。

その中から、能「三井寺」に関係するものなどを選んで投稿させていただきます。

金堂(国宝)



鐘楼(三井の晩鐘)

一つ撞かせていただき先祖の供養をお祈りしました

勧学院
能「頼政」の詞章の中に、「勧学院の雀は蒙求(もうぎゅう)を囀るといへり」というのがあります。

客殿(国宝)は期間限定公開ということで入れず。是非また日を合わせて伺いたいです。

閼伽井屋(重文)
三井の霊泉 
天智、天武、持統の三帝が御産湯に用いられたことから「御井寺」、すなわち「三井寺」とい名前が生まれるもととなった霊泉が今も昏々と湧き出ています。

大門(仁王門・重文)

観音堂(左)と札所伽藍

一切経蔵(重文)
八角輪蔵(一切経蔵内部)





この時期、京都市内は国内外の観光客でいっぱい。

この三井寺の広い伽藍内ですれ違った客は、100名にも満たない。

紅葉前ですが、秋の三井寺をゆっくり拝見できました。いいですね 大津。

御朱印もいただいてきました。

最近始めた「西国三十三所観音霊場」巡り。いったいいつ完結するのでしょう(笑)









最後に三井寺についての説明をHPより抜粋して書かせていただきます。

興味のある方ははお付き合いくださいませ。


三井寺について

天台寺門宗の総本山である三井寺は、正式名称を長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)と言います。

667年に天智天皇により飛鳥から近江に都が移され、近江大津京が開かれました。
672年、前年の天智天皇の永眠後、大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が皇位継承をめぐって争い、壬申の乱が勃発。壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王は、父の霊を弔うために「田園城邑(じょうゆう)」を寄進して寺を創建し、天武天皇から「園城」という勅額を賜ったことが園城寺の始まりとされています。

勝利をおさめた大海人皇子は再び飛鳥に遷都し、近江大津京はわずか5年で廃都となりました。

三井寺と呼ばれるようになったのは、天智・天武・持統の三帝の誕生の際に御産湯に用いられたという霊泉があり「御井の寺」と呼ばれていたものを、後に智証大師円珍が当時の厳義・三部潅頂の法儀に用いたことに由来します。
現在、金堂西側にある「閼伽井屋」から湧き出でている清水が御井そのものとされています。

貞観年間(859~877)になって、智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)和尚が、園城寺を天台別院として中興されてからは、東大寺・興福寺・延暦寺と共に「本朝四箇大寺(しかたいじ)」の一つに数えられ、南都北嶺の一翼を担ってきました。
円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、正暦四年(993)、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入ります。この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し、天台宗は二分されました。
その後、両派の対立や源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど、幾多の法難に遭遇しましたが、智証大師への信仰に支えられた人々によって支えられ、その教法は今日に伝えられています。

三井寺の本堂、金堂には、本尊として弥勒菩薩が祀られています。「寺門伝記補録」によると、身丈三寸二分の弥勒菩薩が祀られていることがわかりますが、絶対の秘仏となっているため見る事ができません。この弥勒菩薩は天智天皇の御念持仏と伝えられています。
さらに推古天皇・聖武天皇・陽成天皇・藤原鎌足・藤原道長・行基菩薩が奉納した六躯もの弥勒菩薩がお祀りされています。
その他にも智証大師ゆかりの仏像や宝物が秘仏として大切に安置されています。

西国三十三所観音霊場巡礼の第十四番目の札所である観音堂がよく知られています。

  

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