2016/07/17

錦木塚(秋田県鹿角市十和田錦木地区)「錦木」

6月6日から8日まで皐風会(小島英明師主催)の文化庁巡回公演で、函館、弘前、鹿角、八戸を回ってきました。



7日は秋田県鹿角市のコモッセでの公演の後、バスで錦木塚を皆で訪ねました。

能「錦木」の史跡です。


「ニシキギ」といえば、普通はニシキギ科の植物の名前を意味しますが、本作で登場する「錦木」はその意味ではなく、美しく彩り飾られた木の枝をさします。
この「錦木」と、同じく本作に登場する「狭布(きょう)の細布(ほそぬの)」は、歌語(かご)、つまり和歌の世界で用いられ、イメージづくられてきた言葉となっています。なかでも


錦木は立てながらこそ朽ちにけれ狭布のほそぬの胸あはじとや
錦木は千束(ちづか)になりぬ今こそは人に知られぬ閨(ねや)のうち見め

の二首は本作中に引用され、この作品の核となっています。
これらの歌に関して、本作成立より300年ほど前に書かれた歌論書『俊頼髄脳』には、次のような挿話が載せられています。

──陸奥国の風習では、男が女に求婚をするとき、手紙を送るのではなく、薪(たきぎ)を切り、毎日1束づつ女の家の門の前に立ててゆく。女は承諾するとその木を家の中に取り入れ、それを以後は男は女と対面して口説くことができるようになる。女にその気がないと、木はそのまま放置されるので、男が毎日運び続けた木は積もってゆくのである。三年が経ち、1000束が積もってもなお承諾されないときは、男は諦めることになっている。この木は、五色に彩色されて飾り立てられるので「錦木」と呼ばれている。また、「狭布の細布」というのは、これも陸奥国の物で、鳥の毛を織ったものである。希少な材料で織ったものなので、幅も狭く、長さも短いものなので、肌着として下に着るのである。そういうわけで、背中ばかりを隠し、胸までは隠れないので、歌に「胸合わず」と詠むのである…。
 

本作は、この挿話をもとにして構成され、都から遠く離れた陸奥国を舞台に、男女の純朴な恋を描いた作品となっています。

 





ここからは隣接する「錦木地域活動センター」内の展示室からの写真です。

興味深い写真が多くありますのでご覧ください。















【錦木塚物語】 
 昔、今の錦木(にしきぎ:鹿角市十和田錦木)の地域を都から来た狭名大夫(さなのき
み)という人が治めていた。その人から8代目になる狭名の大海(おおみ)という人には、
政子姫(まさこひめ)というとても美しい娘がいた。政子姫は細布を織るのがとても上手
な人であった。
 一方そのころ、近くの草木(くさぎ)というところに、錦木(にしきぎ)を売ることを
仕事にしていた若者が住んでいた。錦木というものは、「仲人木(なこうどき)」とも言
って縁組に使うものであり、当時は、男性が好きな女性の家の前に錦木を置き、その錦木
を女性が拾って家の中に入れた場合は、結婚してもよいという意味の決まりがあった。
 ある日、若者は市日のときに政子姫を初めて見て、その美しさにひかれ恋いこがれてし
まった。若者は、翌日から毎日毎日、雨の降る日も風の吹く日も雪の吹雪く日も一日も休
まず、政子姫の家の門の前に錦木を持ってきては立てた。
 しかしながら、錦木は一度も拾われて家の中に入れられることはなく、家の前に立てら
れたまま増えるばかりであった。そのたびに若者は草木へ戻る帰り道のそばの小川で、涙
を流して泣いた。その川は、のちに涙川と言われるようになった。
 一方、政子姫は、家の門の前に毎日錦木を立てられているうちに、機織りする手を止め、
こっそり若者の姿を見るようになっていた。そして、いつの間にか、政子姫も若者を好き
になっていた。たが、いくら若者が錦木を立てても、身分が違うことや、もう一つ重大な
訳があって結婚の約束はできなかった。その訳というのは、次のようなことである。
 当時、五の宮岳(ごのみやだけ)の頂上に巣を作っている大ワシが里に飛んできては子
供をさらっていた。あるとき、若い夫婦の小さい子供が大ワシにさらわれて村人がとても
悲しんでいたとき、ある一人の旅の坊さん、「鳥の羽根を混ぜた織物を織って子供に着せ
てやれば、大ワシは子供をさらっていかなくなる。」と教えてくれた。布に鳥の羽根を混
ぜて織ることは非常に難しく、よほど機織りがうまくなければできないものであった。そ
のため、機織りの上手な政子姫は皆からお願いされていた。政子姫は、子供をさらわれた
親の悲しみを自分のことのように思い、3年3月を観音様に願かけしながら布を織ってい
たのだった。その願かけのために、政子姫は若者と結婚する約束ができなかったのである。
 若者は、そういう理由も知らず、毎日せっせと3年もの間、錦木を姫の家の前に立てて
いた。
あと一束で千束になるという日に、体がすっかり弱くなった若者は、門の前の降り積もっ
た雪の中に倒れて死んでしまった。
 政子姫は非常に悲しみ、それから2、3日後に、若者の後を追うように死んでしまった。
 姫の父親の大海は、2人をとっても不憫に思い、千束の錦木と一緒に、一つの墓に夫婦
として埋葬した。その墓が後に錦木塚と呼ばれるようになったものである。












こんな写真もありました。

能の大先輩方がこの塚を訪ねられた時のものです。



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