雲巌禅寺から蓮台寺へ。
蓮台寺は「檜垣寺」の異名で知られる。新古今和歌集や後撰和歌集等で知られる女流歌人・檜垣が、晩年、肥後の国白川のほとりのこの地に草庵を結び、観音像を安置して信仰の日々を過ごしたのが寺歴の始めという。
檜垣については、この地で井戸の水を汲んで岩戸観音に日参したと言われ、清少納言の父であった清原元輔が肥後国司であった時、檜垣が元輔と交わした歌
「年ふれば わが黒髪も 白川の 水は汲むまで 老いにけるかな」
「白川の 底の水ひて 塵立たむ 時にぞ君を 思い忘れん」
はこの地で詠んだとされる。
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檜垣の塔 |
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寛政年間、当時の住職であった明空上人が白川の氾濫による死者の供養のため、千日念仏行脚の上、境内に千体の地蔵を安置し、これにより「千体地蔵寺」とも呼ばれた。 |
能「檜垣」のあらすじ
肥後国 岩戸山に籠もって修行する、一人の僧(ワキ)。彼のもとには、一人の老女(前シテ)が毎日やって来ては、仏前に供える水を捧げていた。ある日僧が老女に名を尋ねると、彼女は「後撰集」に見える歌人・檜垣の女の霊と名乗る。彼女は、年老いて白川のほとりに住んでいた折に、藤原興範に水を請われ、歌を詠んだことを語ると、白川で自らを弔ってくれと頼み、姿を消すのであった。
僧が白川を訪れると、女の霊(後シテ)が年老いた姿で現れ、消えやらぬ執心ゆえに、今なお地獄で水を汲み続けているのだと明かす。彼女は、興範に請われて老残の舞姿を見せた思い出を語り、舞を舞う。
終わりなき因果の環からの救済を願いつつ、今日もまた水を運ぶのであった。
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