今年3月18日に京都在住能楽師 吉浪壽晃氏の会にお邪魔した時、観光した大原。寂光院は以前投稿しましたが、三千院を遅ればせながら投稿します。
朝京都に入り観世会館にて申し合わせをして、その足で大原へ。
寂光院と三千院とはあんなに距離が離れているとは思いませんでした。
今度いつ来れるかわかりませんし、せっかくここまで来たのだから両方見なければという思いで、汗だくになりながら歩きました。おかげで本番の「屋島 弓流」の時は見事に筋肉痛でした。
説明は入場料を支払うといただけるパンフレット、その他から引用させていただきます。
大原三千院
比叡山の北麓に位置する三千院は、また梶井門跡とも呼ばれ、古くは滋賀県東坂本に里坊があった。中世以降に大原魚山の来迎院、勝林院、往生極楽院などの寺々を管理するために大原に政所を設けたのが前身であり、明治になって三千院と公称するようになった。
境内の北側を流れる川を「律川(りつせん)」、南側を流れる川を「呂川(りょせん)」と呼ぶ。謂れは上写真の通り。
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桜の馬場 |
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宸殿 |
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聚碧園
往生極楽院
往生極楽院に祀られている国宝の阿弥陀三尊像は、心に沁みます。
有清園のわらべ地蔵
弁天池に流れる細波の滝
売炭翁石仏
観音堂
石庭二十五菩薩慈眼の庭
これより奥の来迎院へ。
来迎院は天台宗の古刹で、この来迎院のある大原は、平安時代初期、日本天台宗を開宗した伝教大師最澄の直弟子の慈覚大師円仁(えんにん)が声明の修練道場として開山した。
円仁が中国(唐)に留学した際、五台山の太原(タイユワン)を中心に五台山念仏(声明)が流行していたのを学び、帰国後比叡山に伝えた。
この大原の地形は、中国の太原のと類似していたので、声明の根本道場と定められた。
声明とは経文に音曲をつけて歌詠するもので、音楽的な色彩が強く、後の邦楽(今様、浄瑠璃、謡曲、民謡など)に強く影響を与えた。
来迎院は聖応大師良忍が平安時代末期(1109)に建立した。
創建当時の来迎院は、三尊院と称し多数の堂塔伽藍があったが、1426年に焼失した。
この後大原は、上院来迎院と下院勝林院を中心として坊が集落化する別所となり魚山大原寺(ぎょざんだいげんじ)と総称した。
山門
本堂
聖応大師良忍上人 御廟
三重石塔 (国 重文 鎌倉時代)
能「三山」では良忍上人の役をワキが演じます。
お恐れながら、お墓参りをさせていただきました。
良忍上人は、毎日法華経を読誦し、大乗経典を書写し、念仏六万偏を唱え、手足の指を燃して仏に供養された。さらに音無の滝(律川300米上流)で滝に向かい声明を唱えられたり、獅子が上人の唱える声明の調べに陶酔し、堂内をかけめぐり岩になって残った(獅子飛石)などの三昧行に精進された。
1117年46才の時、念仏三昧中に阿弥陀仏から融通念仏(ゆずうねんぶつ)の教えを授けられた。
融通念仏とは、一人の念仏と衆人の念仏とが互いに融通しあって往生の機縁となることで、この教えをもって弟子達に布教にあたらせ、都や畿内にその教えは流布され、やがて河内平野の大念仏寺を総本山として融通念仏宗を開宗するようになる。
良忍上人は1132年2月1日60才、来迎院に入寂された。
以上 来迎院ガイド より
本堂内の国の重文である本尊(薬師如来、釈迦如来、弥陀如来)は藤原時代の木造で、柔らかい曲線による優雅なお姿でした。
鎮守堂 獅子飛石 地蔵堂
私の写真はいかにも素人。絵葉書やパンフレットの写真はさすが綺麗に写してありますね。とてもかないません。
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